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夢のある風景(1)

■ 拓真館ができるまで 前田真三

  拓真館のある旧千代田小学校の跡地で、はじめて写真を撮ったのは、エゾヤマザクラが咲き誇る1978年5月16日のことである。サクラのピンクの花が柔らかな新緑に映えて、夢のように美しい北国の春景が繰り広げられていた。それ以前から、この付近へは何度も足を運んでおり、廃校の存在も知っていた。「麦秋鮮列」の写真は、ここから1.5キロほど美瑛市街寄りの新星緑ヶ丘で77年に撮影している。その後も時折足を運んでいたが、'85年の10月、翌春出版予定の写真集「丘の四季」に載せるポートレートをここで撮ってみようと思い立った。カメラを構えた撮影風景を撮ったり、サクラの紅葉や野菊などもカメラに収めた。秋の好天に恵まれゆっくりと撮影できたこともあり、この小学校の跡地のことが深く印象に残った。

 そしてその直後に、たまたま美瑛町役場の人たちと会食をする機会があった。雑談の折に、旧千代田小学校の話を持ち出した。跡地で半日写真を撮ったことや、朽ちかけた校舎のことなどよもやま話をするうちに、「役場ではあのまま放っておくのですか?」と尋ねると、都市計画課長(当時)の今野三樹夫さんから逆に「何か良い利用方法がありますか?」と聞かれた。ふと思いついて「写真ギャラリーでもやってみようか」と冗談半分に答えた。それ以前からこの丘に撮影拠点がほしいと思ったことはあったが、作品を展示する場という発想はなかった。それが旧小学校の体育館と教室を見ていたことで、自然とそうした考えが思い浮かんだのであった。早急に実現するとは思っていなかったが、ひとつの「夢」としてそのことを語りあった。  

 

   翌ユ86年の春に写真集「丘の四季」を出版し、この丘陵地帯との関わりがますます深くなった。 上高地や奥三河の取材も一段落した時期で、さらにこの丘と密着し、もう一度自分なりの写真を撮ってみたいとも思うようになった。そんな折役場の今野さんから連絡をもらった。「町長はじめ役場でも全面的に応援しますから、ギャラリーの件、ぜひやって下さい」と言うのである。昨秋以来、今野さんは各方面へ問い合わせたり、いろいろと根回しをしてくれたようである。さて具体的に話が進んでみると、果たしてここで私費を投じてギャラリーを作って、やっていけるものだろうかという心配が浮かんできた。

  はじめてこの地に立った時から、私はいつもこの丘陵地帯には「夢のある風景」があると思ってきた。そしてその地で自分の夢が実現するのであれば、できる範囲内でやってみようと決心した。それがユ86年の10月のことである。ギャラリーとして使用する体育館と併設する教室の屋根工事を秋のうちに終え、並行して小さな住宅を新築した。年末にお披露目をして、私はそこで年を越した。雪解けとともに本格的に改修工事を行い、ギャラリーが正式に開館したのはジャガイモの花が咲きそろう夏、7月10日のことであった。


 

「前田真三写真美術館@丘の夏」より
(1999年講談社)


夢のある風景(2)

■ 拓真館ができてから 前田真三

 

 

   1987年7月に拓真館をオープンして、数年の間はおそらく一年の半分以上をここですごしたのではないかと思う。ギャラリーはでき、写真も展示したが、敷地の半分は手つかずの状態で、それをどのように作り上げていくのかが当面の目標である。漠然とではあるが、頭の中に青写真はできていた。ひとことでいえば、自然の風致を生かした環境整備をしたいと考えた。東京から来た友人がある時こんなことを言った。「前田さん、噴水は作らないのですか?」その人は写真やアートを扱う職種にあり、私とも古いつきあいである。ただ残念ながらその発想は都会人のものであった。私の考え方は全く逆である。とにかくまず木を植えることからはじめた。

   「丘の落葉松」もその一例だが、農家の人達は少々邪魔だとすぐ木を伐ってしまう。生産効率を考えれば致し方ない面もあるが、それならば私はここにどんどん木を増やし、大事にしていくことを実践しようと思った。その最初の事業が白樺回廊である。庭を半周する形で延べ250メートル、2,300本ほどのシラカバを植え、並木道を作った。かなり乱暴な移植であったので、夏の間中ホースで水やりをこまめにした。その甲斐あって大半が枯れることなく無事に根づいた。

  道路改修でカタクリの群生地が削られると聞けばそれを移植し、畑のふちのカシワの木を伐るというのでもらってきたりもした。手間も時間もかかることなので、一度にはできないが、少しずつ庭造りをしていくことは大いなる楽しみでもあった。  一方撮影の方はといえば、拓真館オープンのひと月前からハイビジョンの撮影を本格的にはじめた。当初は厄介なものを引き受けてしまったなと思ったが、慣れるにつれて面白くなった。写真はある意味では孤独な作業である。ビデオの撮影は共同作業で、次第にスタッフとも息が合い、良いシーンが撮れればまた別の充足感を感じた。

  拓真館を作るにあたっては、ここで私の写真を多くの人に見てもらうという目的が第一義的にある。と同時にもう一度丘の風景とじっくり取り組んでみたいという願いもあった。風景を「出合いの瞬間に捉える」ことと並んで、写真は「足元の風景から」というのが私の信条である。拓真館を拠点にして、自然の息吹、季節の詩を心新たに感じとり、それを作品集として編んでいければと思った。'87年の『白い幻想』(講談社PHOTOLET)にはじまり、'93年の『拓真館物語』(同)まで、丘をテーマに6冊の写真集を、拓真館の開設・整備と同時進行で制作出来たことはその主たる成果である。私は写真の選定から組み合わせ、レイアウトまで自分でやる。これらの本を作りながら、拓真館を整備していくのも全く同じことだとつくづく感じた。そしてそれは「足元の小さな自然の集積が大きな風景を形作る」という私の持論とも通底していることはいうまでもない。

「前田真三写真美術館C丘の秋」より
(1999年講談社)



夢のある風景(3)

■ 拓真館の春 前田真三
 

 

  1978年に旧千代田小学校の跡地、すなわち現在の拓真館でエゾヤマザクラの写真を撮ったことはすでに書いた。その時の写真も本書43ページに収録している。千代田小学校は奇しくも私がはじめてこの丘陵地帯を訪れたユ71年に廃校になっている。桜の写真を撮ったのはその7年後で、校庭にはまだ子供たちが走り回っていた痕跡がうかがえた。その校庭を取り巻くように大きく分けて3ヶ所の並木があった。それぞれに10本ほど、合わせて30〜40本の桜が、丘のくぼ地でひっそりとそして華やかに咲き誇っていた。

  朽ちた校舎を改装して拓真館を開設したのはユ87年の7月。校庭はかなり荒れ果て、桜も病気がついて樹勢が衰えていた。早速手入れをし、回復が見込めそうもない樹の周辺には若木を求めて植え足したりもした。数年経てば次第に良くなるだろうと思ったが、予想以上に回復し、駄目かと思った樹の根元からも新しい枝が伸びて花をつけるまでになった。手入れをしてやればそれだけの効果があることを改めて知った。 拓真館を桜の名所にしようと思ったわけではないが、すこしずつ植樹を繰り返し、現在は230本ほどにもなった。冬を越してこの地で春を迎えると、桜の花の美しさもひとしおだ。まるで春の化身のように思えてくる。桜を機会あるごとに植えてきたが、そのことに多少感化されたのか、町や近所の牧場などでもずいぶんと苗を植えるようになった。近年では、最寄りの美馬牛駅から拓真館までの5キロほどの道沿いにも苗木が植えられた。ヒョロヒョロとした若木だが、5年経ち10年経って、やがて立派な並木になることを想像すると、まことに楽しみだ。

  拓真館を整備、維持していくうえで、自然の雰囲気を残した部分と花壇や花畑など人の手の加わった部分を区分けしたいと考えてきた。前者は例えばカタクリをはじめとする野草を数多く植えた西側の斜面や、ススキの生い茂る中庭である。後者は、ラベンダーやチャイブの広い花畑や所々に植えたシャクヤク、アルストロメリア、ユリなどの花々である。そしてその両者の中間にあって、それら以上に重要な役割を果たすのが、シラカバやエゾヤマザクラなどの樹木なのである。

   私の写真に手本はないが、拓真館の整備にはひとつの手本がある。それはこの丘陵地帯全体の風景である。自然と調和し、ある所は自然のままに、またある所は人が丹精をこめる。そうして生まれた風景に私自身が心打たれたように、拓真館の風致もそうありたいものだと思う。都会の公園ではないので、あまりに人工的にはしたくない。ある部分は自然の変遷にまかせつつ、今後も手入れをしたいと思っている。開館当初に植えた木々もしっかりと根づき、今は豊かな森になった。四季折々の変化も鮮やかだ。ただひとつ残念なのは、ミズバショウやリュウキンカの咲く湿地がないことだ。これは今後の課題としておこう。

「前田真三写真美術館G丘の春」より (1999年講談社)


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